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今シリーズの出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
原文:緑文字
意訳:青文字
まさか大正時代の刊行物に句読点がないとは思わんかった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
平仮名が少ない文節だと、変体漢文の読み下しと大して変わらないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
永禄10(1567)年11月23日、島津による菱刈(ひしかり)氏の馬越(まごし)城攻撃が始まった。
貴久公は清水曽於郡宮内田布施の衆七千余人を率いて陣之尾に
貴久公は清水(現 鹿児島市清水町)・曽於郡・宮内(現 薩摩川内市宮内町 )・田布施(現 南さつま市金峰町)の衆七千余人を率いて陣之尾(現 伊佐市大口篠原陣之尾)に、
ちとズルして某様から地名の御教授受けました^^
ほーーー|ぐーぐるMAP|0 ̄)じぃー けっこうアチコチから兵を引っ張ってるな~
ちなみに貴久公が布陣した『陣之尾』は、馬越城の北側です^^/
義久公は鹿児島谷山加世田阿多山田吉田帖佐の衆八千余人を率いて前目諏訪山に陣し
義久公は鹿児島・谷山(旧 谷山市、現 鹿児島市)・加世田(旧 加世田市、現 南さつま市)・阿多(現 南さつま市金峰町)・山田(現 鹿児島市山田町)・吉田(現 鹿児島市吉田町)・帖佐(現 鹿児島県姶良市)の衆八千余人を率いて、前目諏訪山(現 伊佐市菱刈前目の諏訪山)に陣し
諏訪山の正確な位置がチト判らん~ただ菱刈前目に神社(諏訪神社系)があるんで、そのあたりになると思う。
となると同じ北側だけど、義久公の方が貴久公より馬越城に近い場所に布陣した事になります。
やっぱ家督を譲り受けたニューリーダーが前面に出ないと~(*´pq`)ウフフ
さて、こっからはシオの方で苦闘点・・・もとい読点と振り仮名入れていきます^^/
喜入季久(きいれ すえひさ)、比志島式部少輔義基(ひしじま しきぶしょうゆ よしもと)等(ら)は湯之尾の軍に當(あた)り
★喜入季久・・・島津氏庶流である喜入氏の5代当主
★比志島式部少輔義基・・・伊集院忠棟の弟で比志島氏に養子に入った人物
★湯之尾の軍・・・菱刈氏の支城がありました。住所としては同じ伊佐市菱刈前目ですが、馬越城から1~2km離れてます。
北村、溝邉、踊之衆は横川の軍に當(あた)り
おおっ、これは「本藩人物誌」にない菱刈側の記述だ。
★横川の軍・・・横川城は菱刈氏の城なんですが、伊佐市から離れ霧島市で、いわば飛び地になります。
島津に反抗する前に、菱刈重猛が功により加増された城で、菱刈の一門衆が城主でした。
ちなみに横川城は馬越城から10km以上離れています。
つ~ことは、島津は菱刈の本拠地だけでなく飛び地の方も同時にシメにかかったんだ。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
伊集院、市来(いちき)、伊作、高橋、川邉、頴娃(えい)、指宿(いぶすき)の衆は、大口及び球磨、八代の軍に當(あた)り
詳細は菱刈史に書かれてなかったんですが、球磨・・つまり相良では菱刈の緊急事態に援兵を出してたそうです。
義弘公も真幸(まさき=宮崎県えびの市)の軍を率いて般若寺の険路を越えて稲荷山に陣して各部署につかれた。
すごい・・・すごい!島津すごい~~てか怖いよ~~ヒーン・゜・(つД`q。)・゜・
島津側の記録だと菱刈攻撃の兵力は、貴久公と義久公が率いてた1万5千(本軍?)しか記載されてないみたいなんですが、地名を丹念に拾ってみていくと実際は更に多い兵数に動員かかってたようです。
横川(霧島市)や相良からの援兵対策に配置された島津勢も含むと、動員兵力は2万以上のはずです。
これだけの厚みで一気に来られたら、菱刈は対応しきれません。
あ、義弘公が布陣した稲荷山は、伊佐市菱刈前目字稲荷山・・・なんだけど地目が畑な上に耕作不能らしくてグーグルに反映しなかった~
とにかく菱刈前目だから馬越城の目と鼻の先には違いないです。
翌24日、貴久公陣を徳辺(=伊佐市菱刈徳辺)に移し、義弘公を以(もっ)て前軍とし城の乾(いぬい=北西)より攻め登った。
|菱刈史|o ̄)じぃー・・・おおっ、これは・・攻撃に入るための陣替え・・・!
北側後方にいた貴久公の陣が前(菱刈側から見ると、義久公の陣の東側隣)に出た・・・!
馬越城攻撃の先陣は、四兄弟次男にして猛将・島津義弘公だ!!!
まさに獅子が咆哮するが如く、全力で菱刈討伐を始めた島津氏・・・
菱刈氏は生き残る事が出来るか?・・・それは・またの話 by^-^sio