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ロン様作成、島津家紋ロゴ
今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人補足)
永禄10(1567)年11月23日、島津貴久と義久、合わせて一万五千の本軍が菱刈氏の馬越(まごし)城を囲んだ。
翌11月24日、猛将・島津義弘を先陣に城攻めが始まり、馬越城は城主以下奮戦するも、僅か一日で落城する。
(同年)11月25日、島津氏の軍、大に振るい、本城、湯之尾、曽木、市山、青木、山野、羽月、平泉、
悉く城を捨てて大口城に奔(はし)り、菱刈中務(←菱刈一門)も又、横川(霧島市)を去って、大口に遁(のが)れ、
菱刈大膳亮隆秋を守将として大口城を保ちて居た。
本城-----伊佐市菱刈南浦、本城小学校のあたり(本城って名前の城だったらしい^^;)
湯之尾---伊佐市菱刈川北古川、湯之尾温泉のあたり
曽木-----伊佐市大口曽木
市山-----伊佐市菱刈市山
青木-----伊佐市大口青木
山野-----伊佐市大口山野
羽月-----伊佐市大口下殿
平泉-----伊佐市大口平出水(地名は平出水だけど城の方は平泉)
城の名前=イコール地名だったから見つけやすいかったわ~
お時間あれば、グーグルで検索してみて~当時の菱刈エリアが概ね判ります^^/
横川だけは飛び地でして、10km以上離れた霧島市にありました。
10km強くらいの距離なら、馬越城が落ちたのは翌日くらいには知ってたでしょう。
横川の周囲はグルリと島津エリア~「孤立しちゃ叶わん」と、こちらも城を捨てたわけです^^;
これら菱刈の八城は、25日中のうちに全て捨てられました。
なにしろ馬越城が僅か一日で落ちて城主親子も討たれちゃってます。
とても勝てないというより、城に踏みとどまる戦意自体が挫けちゃったんでしょう^^;

もしくは、島津の方でも菱刈勢が逃げるに任せたのかもしれません。
菱刈勢が逃げる先は、かつては同盟関係・・・そして戦国大名化とともに菱刈の上位者となった相良氏の懐しかないからです。
菱刈史には書かれていませんが、大口城には相良勢の在番衆がいました。
八代衆と球磨衆が交代で守備してて、つまり実質は相良エリアなわけです。
ただし大口城をゲットした経緯においては、菱刈勢がメインで周囲の地理も菱刈勢が一番熟知してるわけです。
それで、菱刈隆秋(15代目当主の弟)が守将になったのかな~と^^
(同年)11月26日、貴久・義久の両公は、其の旗下の将卒を分かちて、
本城、曽木、湯之尾、市山、を守らせ、
山野、羽月、平泉は薩州家の島津義虎に命じて守らせた。
菱刈隆秋は急を球磨に告げ援けを請うた。
くどいようだが、大口には元々相良の在番衆が詰めてます。
だから兵の増強を(-人-)☆彡オネガイ したんじゃないでしょうか。
相良氏、球磨八代の軍三百余人を遣わして之を援け、島津義虎が守れる山野、平泉を襲った。
くどいですが、球磨衆と八代衆の大口在番は『交代制』で、両者が被ったことはありません。
そのあたり菱刈側の伝承ではゴチャゴチャになってるのでしょう。
この当時の在番が球磨と八代のどちらかまでは判りませんが、増強するなら球磨衆と八代衆のどちらかです。
是より大口の菱刈軍優勢となりて攻勢に転じた。
単純計算です。
八つの城にバラバラだった菱刈勢が大口城に集結し、元からいた相良の大口在番衆(千人くらい)+援兵三百余人。
これにより島津側の各城・留守兵の兵力を上回るのは当然の帰結です。
敵から奪った城は、監督下におくために留守兵を入れます。
そのため、せっかく集中してた兵力が分散するのは避けられません。
常に新しい兵力の補充があれば大丈夫ですが、この時点の島津は未だヤリクリしてる段階なんでチト厳しい^^;
不意をくらって支城の殆どを失う羽目になった菱刈氏だが、今度は反転して攻勢側になった。
元々が自分のところの城です。
地形も地理も弱点も熟知してます。
菱刈氏は八城を捨てるという、いわば「肉を斬らせ」たわけだが、果たして島津の「骨を断つ」ことが出来るのか、それは・またの話 by^-^sio