相良編なのに菱刈ばっかりですが、縁戚関係だし相良の被官だから絡みが多くて~渋谷一族みたいに別書庫で切り離せないのです(´・д・`)
ちなみに大口は肥後と大隅の国境なのです(´・д・`)
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今回の出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人補足)
赤やオレンジの色文字は管理人の推測です
菱刈史では、菱刈隆秋が大口城の守将と書いてますが、大口城は相良と菱刈の両属のような感じでした。
(立場的には戦国大名化した相良氏が菱刈の上位者)
ですから、大口城には相良から派遣された在番衆が常駐してたんです。
八代衆と球磨衆が半年ごとに交代で千名ずつ詰めてます。
これまでのシリーズ粗筋↓
永禄10(1567)年11月24日(島津側では出陣した23日)に、島津勢1万五千の本軍が菱刈の馬越城を攻撃。
城主以下、数百名が討たれ、僅か一日で落城します。
翌、25日、島津の気勢に不利を悟った菱刈氏は、八つの支城全てを捨てて、大口城に籠った。
くどいですが、大口には相良の在番衆が詰めてます。
菱刈隆秋は相良に(-人-)☆彡オネガイ~更に三百の援兵を受けた。
菱刈史には書いてないですが、おそらく占拠した城の留守兵以外の島津勢は薩摩国に帰国してるはずです。
分散したとしても島津本軍1万5千が、帰国しないで近在にいれば菱刈の反撃を許すはずないから。
そもそも菱刈エリア攻撃は11月下旬・・・このまま駐留し続けたら他郷での越冬になります。
食料が乏しくなる冬期間に、大軍を長期間駐留させ続けるだけの余力が、未だ国内に反抗的な国衆(渋谷一族)を抱える島津にはありません。
てか、動員された島津配下の国衆の方だって、他郷でハッピーニューイヤーは嫌でしょう^^;
てことで、結果・・・『大口に避難した菱刈勢+相良からの援兵300+元からの大口在番の相良勢1000』が、《八つの城を占拠したがゆえに分散してしまった島津の各城留守兵》を上回ったわけです。
おそらく菱刈隆秋は、大口城から討って出る遊撃部隊だったんじゃないでしょうか。
(城の守りは元から詰めている相良勢がいるんで、自分が留守してても大丈夫♪)
何せ島津が占拠した八つの支城は、元々は菱刈が捨てた城。
城内の井戸の位置から、地理的に弱点となる場所、ジモティしか知らない抜け道、などなど菱刈は全部知ってます。
たちまち形勢逆転~~
不慣れな城と土地に入った島津勢の方が、逆に不利になってしまった! Σ(´Д`;) はぅ
(同年)12月29日、(島津は)市来、伊集院、田布施、川邉の軍を市山城に入れ、
市来備後守、平田加賀守、伊集院刑部少輔、市山の兵を率い密(ひそか)に大口に入りて其の地理を観察した。
市山城(元・菱刈氏の支城)----伊佐市菱刈市山(正確な位置は不明)
大口の菱刈軍、城を出て之を追い、三将 西原の川涯(崖?)に還り力戦して死し、残兵 潰乱(かいらん)して市山城に遁れ入った。
大口城---伊佐市大口里字上ノ馬場(大口小学校の御近所)
あぁ、地理偵察に行くだけあって、大口と市山って2kmくらいしか離れてないわ。
川は川内川の支流・・・なんだけど支流の呼称が探せなかった^^;
偵察の三将が川を越えてたってことは、大口城から500m圏内に入るまで接近してた事になります。
あわよくば威力偵察するつもりだったのかも。
其の後、大口より市山城を侵す事、度々で市山城危うく、貴久公 新納忠元をして市山城を守らしめた。
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(橘朝臣幸麿さま作画、新納忠元(晩年)イメージ画像)
島津家臣のなかで猛将といえば・・・と、指折り数えれば一番目に名前が挙がる新納忠元、この時で数え42歳。
指折り数える一番目の指→→親指
で、その強さに敬意をもって『親指武蔵』の異名で呼ばれていた。
(決して、背が低いからが由来の親指では・・・ゲフ、ゴホ、グホ)
大口という土地に親指武蔵・新納忠元が縁するのは、この「市山城へのテコ入れ」からなのだが、それは・またの話 by^-^sio