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えっと~肝付氏のデータを見てると、蒲生氏が気になってしゃーないんで、我儘言ってデータを譲って頂きました^^;
これまで、ずっとGAMOUと読んでいたんですが、大隅の蒲生さんの読みはKAMOUだったのをデータで知った^^;
先入観って怖い・・・il||li _| ̄|○ il||l
本藩人物誌より
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママ)
藤原鎌足から12代目、藤原教清の子・舜清を祖とする。
藤原教清は宇佐八幡の留守職で豊後に下向し大宮司の婿となって一子を儲ける。
それが上総介舜清で号は真光坊。
保安四(1123)年大隅ニ下向、垂水(たるみ)ニ居ル。其ノ後、蒲生及ビ吉田ヲ領す。
宇佐八幡宮ヲ蒲生ニ勧請(かんじょう)シ代々蒲生ヲ領ス
ふむふむ・・・φ(.. ) メモメモ
蒲生氏は宇佐八幡系武家か~となると氏神は分祀した【蒲生八幡神社】になるわけだ。
(島津)忠久公御下向、(蒲生)清直ヨリ六代美濃守清寛ハ元久公 久豊公ノ御家老ニテ候。
忠久公というのは島津氏初代のことで、九州へ下向したのは1186年のこと。
その時の当主が蒲生氏3代目清直だったのかな?(@@)
つまり大隅蒲生氏は島津氏より前に大隅の地に土着していたんです。
で、カウントが変なんで判りづらいけど清寛は蒲生氏11代目で、元久公 (←兄)久豊公(←弟)とは島津氏奥州家っす。
ふむふむ・・・蒲生氏は後に島津宗家の座を独占する奥州家の覇業を支えていたわけか・・・
島津目線で蒲生氏が島津の幕下になった・・・
と言えば聞こえは良いが、宗家の座を巡る争いの中において、島津奥州家は先に土着した有力国衆である蒲生氏の力を必要としてたんでしょう。
応永八(1401)年、元久公 山北ニ御出張ノ節 別テ抽 軍忠候に付為、賞谷山和田村三十町被宛行候
なはは~一部判んなくって監修様に教えてもらった~
でもって、やっぱ地名に読点ないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
肥前関連だと句読点や文節に迷うことないから、やっぱ島津関連に読みなれてないからなんだろうなぁ^^;
(というより肥前関連は、句読点がないことすら気にならない^^;)
とにかく奥州家の島津元久公が御出張・・出陣したときに【別して抽(ぬき)んでた軍忠】があったらしい。
賞・・・恩賞として谷山と和田と併せて三十町が安堵されたそうな。
ふーむ、、、本貫地の蒲生が姶良(あいら)市で、恩賞で与えられたのが鹿児島市だから10km以上離れてるな・・・。
えっと~本藩人物誌では時系列の流れが途切れてます~
補足で元久公が1411年8月6日に陣中で病没して家督争いになった~
応永二十(1413)年十二月上旬 菱刈凶徒為御誅伐 久豊公御発向被成候処
其ノ御跡ニ伊集院頼久 鹿児島ノ本城(清水城ノ事)ニ寄リ来リ候由相聞得
え~っと、久豊公の頃も逆らったんですね菱刈さん^^;
で久豊公が討伐のために本城を留守した間に伊集院頼久が寄り来り~
って端折って書くと何やら楽しそうな表現ですが、これ実は留守を良い事に城を奪っちゃったのさーーーー( ゚д゚)ンマッ!!
伊集院頼久----島津氏一族伊集院氏7代目、妹が亡き元久に嫁いでいたので久豊公から見て義兄弟にあたります。
久豊公と実兄の元久公は不仲だったんですってネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
伊集院頼久は病床の元久公から『家督はソチの息子に~』って遺言を受けたと主張してました。
後継者レースから外された久豊公は、伊集院から葬儀の真っ最中に亡き元久公の位牌を強奪し、自分が兄貴の葬儀強硬して奥州家当主となったそうです。
さすが、ドン久豊公~キャラが立っておりますな ( ゚Д゚)y─┛~~
(落城の知らせを聞いた⇒)久豊公 御憤リノ余リ御一騎掛ケ遊被候処ニ
ありゃ、よほどブチ切れたのね~大将が一人で飛び出したとな^^;
一話で室町時代まで終わらせたかったけど、本藩人物誌の記述が面白くて楽しく編集してたら一話で収まらんかった(爆
また、時間あるときに続きやります~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
激怒のあまり立場を忘れて飛びだした奥州家ドン・久豊公・・・それは・またの話 by^-^sio