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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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筑後蒲池氏_1・筑後守護職

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他の過去記事と重複する部分はあるのだが、筑後守護職は外せない^^;

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します

参照文献では蒲池氏の出自について色々触れているのだが、管理人がオバカ専門外なので脳に浸透しない^^;
結論からいうと「よく判らない」らしい。
プロローグに書いたように「蒲池物語」は信憑性が低く、さりとて他のとなると文書が少なすぎて明瞭な痕跡がない。
ただ薩摩の旧記雑録の方から、江戸期に島津家臣となった蒲地氏と筑後蒲池氏が同族なのが判明したと書かれています。
(と、書いてはいるものの、薩摩蒲地氏って自分も判ってない^^;)

鎌倉期~南北朝と記録が殆どない蒲池氏なのだが、どうも当初は南朝だったらしい。
あくまでも傍証からの推論なので参照文献でも「らしい」という控え目な書き方です。
南朝が優勢だった九州へのテコ入れで、名将と謳われた今川了俊が九州探題職として投入され、蒲池氏も北朝方へ鞍替えした(じゃないかな~と参照文献が推測してます)

で、九州において功績が大きすぎる今川了俊の存在を危惧した足利義満によって、了俊は探題職を解かれて駿河へ帰国。
当時、筑後守護職は今川了俊が兼務していたのだが、こちらも解任。
今川了俊に代わって筑後守護職となったのが、鎌倉期に筑後守護職の先例がある大友氏だった。
以来、筑後と大友氏は深い繋がりを持つようになる。

家紋・大友 ロン様作成_大友家紋ロゴ

その大友氏が一時、筑後守護職を外された事がある。
原因は大内氏との対立で大友が勝っちゃったから ( ̄ω ̄A;アセアセ
時の大内氏当主は11代目・盛見(もりはる)

大内盛見は、足利義満とは政治的に対立していたのだが、義満が病死し将軍職が代替わりすると相伴衆として幕政に参加するようになり、特に足利義教に重用された。
で、大内盛見は筑前が幕府の御料所となると筑前の代官に任命される。
このあたりの政治の裏までは調べきれてないのだが、何せ「万人恐怖」「悪御所」と言われたほど苛烈な足利義教がバリバリの頃だから^^;

そうとなると筑前を本貫地とする少弐氏と博多の利権で分け合う大友氏が黙っていられない。
デジャヴュなパターンで大友と少弐が ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!! と「打倒大内タッグ」を組む。
で、戦国期とは違い少弐・大友チームが勝って、大内盛見は討死する。

激怒した足利義教によって、大友氏は筑後守護職を解任され、代わって肥後守護職だった菊池氏が筑後守護職に任命されました。
それが永享四年(1432)10月のこと。
足利義教が嘉吉の乱で暗殺され、7代目も早世した為に8代目将軍職となったのが、銀閣寺で必ず教科書で紹介される足利義政^-^
寛正三年(1465)、その足利義政が大友氏と菊池氏に、それぞれに筑後半国の守護職に任命するという中途半端なことをした^^;
足利義政らしいというか・・・
当然のごとく「半分ってなんじゃそりゃーーー」と、たちまち大友--菊池間で揉めた^^;

筑後に出兵した菊池氏が敗れたために、最終的に元鞘の大友氏が筑後守護職で治まるのだが、
治まらないのが肥後菊池氏だ。
肥後菊池氏は、筑後に関心を持ち続け、筑後国内にも菊池氏に従う者もいたりで、肥後の政治情勢が筑後に波及する状態は戦国期まで続き、結果として筑後は常に政治的に不安定でした。
ちなみに「大内VS大友」の政治情勢が、筑後に波及する状況(も)戦国期まで続き、以下同文。

で、大友氏ですが戦国期に入り筑後国統治に関し決め事をしてます。
「一、当国(豊後)の者、一人二人づつ、筑後在国あるべきの事」
(永正12・1515、大友義長置文、追而書第三条)

で、自分も参照文献で初めて知ったんですが、大友氏の職制としてマニアに知られた「方分(ほうぶん)」という役職。
これは加判衆(大友用語で他家でいうと家老にあたる)の一部が、分国を一つずつ担当する方式。
(豊後国内においては郡単位)
つまるところ「守護代」みたいなものです。

この方分は戦国期になってから文献に登場し始めるそうで、初めからあった職制じゃなかったようなんです( ゚д゚)ンマッ!!
で、加判衆と方分の兼務のほうも、自分が見てる範囲ですと大友宗麟は兼務を嫌ったような感じを受けます。

それは置いておいて、方分の前は?というと普通に守護代、郡代が派遣されていました。
が、命令系統としては「守護代⇒郡代」ではなく、郡代が守護代と同等の権限を保持してたようです。

なるほど・・・それで郡代が安堵状を発給してたわけか・・・|田尻家文書|・ ̄)じぃー

何故、戦国期になってから「方分」」という職制が創設?されたのか、そのあたりの推移や職制の変遷となると、武家としての大友家が滅んでしまった為に明瞭になっていません。

室町末期?戦国初期?あたりで大友の職制が変化してるというのは、ちょっと驚き(@@)
古文書の読み下しの上でも非常に参考になりました。
守護代であれ、郡代であれ、大友家臣が派遣されている以上、豊後本国で「何か」あれば筑後にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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