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ロン様作成_大友家紋ロゴ
えっと~ちゃんと参照してます(爆
時系列順なんで、こっちも筑後守護職ネタになっちゃうんです^^;
ちなみに今更だけど、念のため~守護職は(しゅ_ご_しき)と読みます。
参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します
南北朝の争乱期だが、参照文献によると蒲地氏と同じく田尻氏も当初は南朝方だった「らしい」
(傍証からの類推)
で、稀代の名将・今川了俊が投入され北朝に鞍替えし、その後に足利義満に解任され~の。
筑後守護職は大友なり~の。って流れは蒲池氏と同じで、あんまり足跡がない田尻氏。
蒲地氏1で書いたように、大内盛見を討って足利義教を激怒された大友氏が筑後守護職を解任されて、新たに菊池氏が任命される。
肥後菊池氏の筑後支配は30年ほどなのだが、史料が乏しく領国支配の中身は良く判っていない。
とりあえず守護代には、城(じょう)氏と石貫(いしぬき)氏が任じられた。
さらに家臣や被官(=配下の国衆)などに領地を安堵している事例があるそうです。
田尻家文書には菊池氏からの文書は残ってないんですが、他史料で田尻家が菊池氏から領地安堵を受けてたらしいのが推察できるそうな。
足利将軍が代替わりし、銀閣寺の足利義政が菊池と大友を筑後【半国】守護にしたのが寛正三年(1465)。
菊池氏は実力で残り半国をゲッツしようとして出兵したのが寛正六年(1465)二月。
菊池勢と大友勢は高良山一帯で激突し、菊池側は大将が討死するという大敗北を喫する。
世間は負けた側に冷たい・・・
菊池氏の軍行動は非法行為とされ、筑後半国守護職は召し上げとなり、筑後守護職は大友氏が改めて任じられた。
筑後守護職を諦めきれない菊池氏は【半国の権利】を主張して来るので、大友家では足利義政に莫大な金額を献金して対抗。
結果、菊池氏の主張は退けられて、筑後の領国支配から手を引くこととなる。

大友氏では一門の田原親宗(たはら_ちかむね)を筑後詰郡代に任命しました。
前回書いたように、大友家の職制では郡代と守護代は同等の権限を有するので、田原親宗が実質の守護代です。
田原親宗は在任中に筑後で起きた一揆の討伐をしているそうですが、田尻氏の動きは史料として残っていません。
田尻家文書から察するに、田尻家が大友家被官として関係が成立したのは文明年間のようです。
過去記事_田尻家文書2_大友親宗知行預ケ状 http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/11646891.html
おほほほ~この読み下しの時期は大友親宗と田原親宗が同一人物か判断に迷ってたのよ~~~
○○を先に読んでおけば~~~は、いつものパターンですな ( ゚Д゚)y─┛~~
「預ヶ状」となっているのは、郡代である田原親宗は田尻氏と大友家との間の、いわばパイプ役だからです。
もっとも、この時に100町足りなかったり、後から検視が派遣されたりで、なんかスマートに行ってないですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
とにかく戦国初期に入って、大友氏と田尻氏は主君と被官としての繋がりが強くなっていきます。
そうなると蒲池氏と同じく、豊後本国で「何か」あれば筑後田尻氏にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio