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相良家文書526_戸次鑑連外二名連著状

わぁ・・・こんなに更新がポツンポツンと間が空くのって初めてかも^^;
ちょっと季節の変わり目のせいか、何処が悪いって訳じゃないんですが、身体がシンドくて・・・(´・д・`)
ろくろく訪問も出来ずにすいません。
連休中に体調メンテしつつ復活しますので、宜しくお願いしますm(__)m
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ネタとして関係あるのか未だ判らないんですが、文中の人物が先々出て来るので読み下してみます。
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封ウハ(上)書)(形態:切紙、捻封)
「            戸次伯耆守
             臼杵越中守
             吉弘左近大夫
相良殿 御報         鑑理」
「- ーー」(端裏切封)
如御礼、慶賀逐日、珍重候、然者、木上宗心進退之儀、被成【欠字】御宥免候儀、可到取合之由承候、各申談、頼房御一通具令披露、
御気色之趣、追而可申入候、宗心事、別而被忝御心候首尾、殊爰元衆多分舊交之儀候間、於相応之儀者、曾而不可存心疎候、猶期来信候、恐々謹言、
(永禄十二年カ)
 五月十日     (吉弘)鑑理(花押)
            (臼杵)鑑速(花押)
            (戸次)鑑連(花押)
 相良殿 御報


欠字あるんで宗麟の動向に触れてます^^
それと更に今回の文書では「段落を変えてます」
ダーーーと区切りも段落も無く書き連ねるのが当時の書き方なんですが、文章の途中で意図的に段落を変える時があります。
それは「欠字」と同じく「貴人に対する礼」としての配慮です。
主君である宗麟の事に触れるため、礼として段落を変えて書いてる訳です^-^
ただ、どういう場面で、欠字、段落変えを使い分けしてるか~ってのは自分のレベルじゃ判らん~~(´Д`)

御礼の如く、慶賀逐日、珍重候、
上手く読み下せなかった~~~とにかく丁重に御礼してる感あります^^;

然者(しかれば)、木上宗心進退の儀、御宥免(ゆうめん)成らせ候儀、取合至る可(べ)くの由(よし)承り候、
さて、木上宗心の進退(しんたい=処分)を、(宗麟に)宥免---罪を許してもらう事について、取合い至るよう承ります。
※取合(とりあわせ)という読みだと年貢総額の意味になるので、前後の流れから本来は建築用語で接合を意味する「とりあい」という方の読みだと判断しました。

各申談(しんだん)、頼房御一通具披露(ひろう)令(せ)しむ、
各(おのおの)申し入れ、頼房(=義陽)の手紙を披露します。
作戦会議っすね^^/
老臣たちが、それぞれ宗麟に働きかけ、タイミングみて義陽の手紙を見せるそうですよ(*´pq`)プププ

御気色(みけしき)の趣き、追而(おって)申し入れ可(べ)く候、
(宗麟の)御気色---御機嫌の様子で、追って申し入れます。
毛利との戦で宗麟がピリピリしてたんだろうなぁ~タイミング難しそうだ・・・・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

宗心事(そうしん こと)、別而(べっして)御心忝(かたじけ)なうせらる候首尾、
宗心の事、別してお心に添うようする段取りにて、

殊爰元(ここもとほか)衆多(しゅうた)分 舊(旧)交之儀 候間(そうろうあいだ)、
爰元・・ここともと=自分
衆多(しゅうた=あまた)=多数、大勢
候間(そうろうあいだ)=○○ですので←丁寧語
って意味なので、意訳すると↓
自分のほか大勢が旧交の間柄ですので、

相応の儀に於いては、曾而(かつて)存心(そんしん)疎かべからず候、
それ(木上宗心の赦免)については、今まで考えを疎かにしてはおりません。

猶期(なお)来信(らいしん)候、恐々謹言、(ラスト2文節、結語の定型文)
また手紙しますね~♪ヽ(*´∀`)ノ恐々謹言なぅ

ふぅ~~大友関連は自分が勉強不足なんで時間かかっるっす ( ̄ω ̄A;アセアセ
豊後の郷土資料まで手が回らん・・・il||li _| ̄|○ il||l

まず初めに木上宗心という人物は大友家臣です。
それが主君である宗麟の怒りに触れて処分待ち状態となってたみたい。
で、相良義陽が処分を取り消し(もしくは減刑)してもらおうと動いている・・・という状況。

義陽が手土産を渡してアプローチしたのが5月初旬らしい(大友老臣からの御礼返書は5月8日)ので、そもそもの目的が木上宗心の処分取成しの方だったんじゃないでしょうか。
大友家臣のために相良が動いてくれてるので、吉弘、臼杵、戸次、の老臣連著で丁重に返事してるわけです。
この取り成しは成功したようで、木上は大友家臣として復活しており、永禄年間の相良家文書に登場します。

で、肝心の相良家が大友家の内輪・・・いわば人事に関わる問題で動いた理由・・・これが判りませんil||li _| ̄|○ il||l
そもそも木上氏は大友譜代ではなく、大友より前から豊後に土着している古族(豊後大神系氏族)の子孫です。
鎌倉期は大友に帰属するのを拒んでいたらしく、大友家臣として木上氏が記録に出始めるのは室町期から。

研究者によると木上宗心は「肥後方分(=守護代)」では?と言われてます。
ただ史料的に肥後方分とハッキリ名言してるものがないので「方分でカウントは早計」としてる研究者もいます。
(ネットで論文要旨を見ただけなので、論文詳細はわかんない^^;)
肥後方分だった小原鑑元謀反の以降、大友では肥後方分を置いていないと過去記事に書いてたんですが、ちょっと違った~(-ω-;)
小原の謀反鎮圧以降、肥後方分という役職はあったけど、現地に赴任させてなかった・・・が正解(・∀・)

まぁ、なんといいますか、肥後特有の御国事情でして・・・
有力家臣を下手に赴任させると、大友統治に不満を持つ肥後国衆の神輿として担ぎ出される危険度が高いので『任命すれど赴任せず』なんです^^;
前出の研究者が「肥後方分」の典拠として挙げてるのが今回とは別の相良家文書でして( ̄ko ̄)
相良家が処分取成しの為に動くところを見ると、木上宗心は肥後に関わる職分(取次?)だったってことかなぁ(-ω-;)ウーン
モヤっとした話ですいません^^;

まずは勉強兼ねて、このあとに続く大友関連も読んで行きます(`・ω・´)キリッ

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