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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【参照】高橋典幸氏2(城館と中世史料_斎藤慎一編)

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コメント23000HITありがとうございます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
これからも精進します。
今後とも宜しくお願い申し上げますm(__)m
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論考:高橋典幸---南北朝・室町期九州の城郭---『山田聖栄自記』より

日記の記述で判ったのが
「清水城に「主殿十二間」「御厩」「雑掌所」などの施設が設けられていたこと」

島津氏久が東福寺城を拡張しようとしたのは(する前に死亡)「主殿作可有」のが理由だったから
つまり、それまでの拠点・東福寺城には、本拠にふさわしい「主殿」がなかった。

氏久の息子・元久の代になると、
「自分に万一あるときは「鹿児島(清水)城蔵」の料足や唐物などを福昌寺に渡すよう」と家臣に命じています。
この書状により清水城には、「島津氏の財産を管理する蔵」が設置されていたのが判ります。

室町な蒲生氏編にも書いたんですが、伊集院頼久が清水城を占拠した時の話。( ̄ko ̄)
日記によると「御重書、小十文字之御太刀之御番」を勤めていた家臣が討死していました。

日記にある御重書とは、島津家当主のみに所有が許された「島津家文書」のことです。
「小十文字之御太刀」も島津家始祖が源頼朝から下賜されたといわれる家宝。

これらの日記の記述からみる推移により
「清水(鹿児島)城は島津総領家の拠点城館」としての機能を持っていた事が考えられます。

ちなみに、この占拠事件のときに城から脱出した者たちは、東福寺古城に逃げたそうです。
で、逃げたのは武士だけでなく「地下町之者」がいたことから、
室町中期の清水城に「城下町」が形成されていたことが判ります^-^



なんというか「知ってるつもり島津編」という感じです。
一次史料から城の機能を導き出すというのは、非常に地道な作業なんですが、
同時にワクワクするだろうなぁ~~萌え・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・ウフフ

自分は未だ、そこまで分析するレベルに達してないので、文献の見かた一つとっても参考になります。^-^

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