参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
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永正に改元する直前に肥後守護職で最後の嫡流当主である菊池能運が28歳という若さで死亡します。
この後の家督を巡るスッタモンダを「肥後の錯乱」と呼びます。←実は今回読んで知った^^;
大友義長は、この肥後の錯乱を通じて「肥・筑対治の儀」と称し、
筑後計略の一環にしました。
まず、能運の遺言により玉名郡・菊池肥前家より政隆が当主に迎えられた。
・・・のだが、菊池家臣が・・・ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
永正2(1505)年、庶流当主に不満の家臣が阿蘇大宮司家から阿蘇惟長を当主に迎えようと画策する。
(庶流がダメで他家ならOKな感覚は不明^^;)
とにかく、これで菊池家内部は政隆派と惟長派に分裂してしまった。
相良氏編では「黒い大宮司」って記事の部分( ̄ko ̄)
永正3、9月に惟長支援で大友義長が軍勢を送ると、
菊池政隆は山本郡・内空閑(うちこが)城で挙兵するのだが、阿蘇小国で敗れる。
この年の12月に惟長は、阿蘇家から菊池当主・武経(たけつね)となった。
永正4、3月になると大友義長は筑後・妙見城の星野重泰(反大友国衆)を攻撃する。
(結果として星野氏は負けました)
一方、敗れた元菊池当主・武経はというと、肥後と筑後を転々とし葦北から島原へと逃亡しました。
(なんか後年の菊池義宗の逃亡ルートと似てる^^;)
で、永正5に筑後に侵入し再起を図った。
どうも筑後に菊池政隆派国衆がいたらしいのだが、参照文献でも国衆が誰なのか判らないとなってます。
永正6、夏に大友は朽網親満(くたにちかみち)を派遣した。
菊池政隆は玉名郡臼間野(南関町)桜馬場で捕らえられる。
同年の閏8月17日に合志郡安国寺において自害させられた。
この間に田尻種久は大友派として協力したらしく
永正5・11・3日に大友義長から知行地を与えられています。「田尻家文書16・17・18」
(まだ読み下してない~~;><☆)
同日に草野氏と五条氏にも知行が与えられている。
大友義長は筑後における反大友国衆も一掃すべく、菊池政隆討伐を利用したようです。
白状すると相良編では手抜きして菊池政隆のことは飛ばしてたので、完全に盲点でした(。-`ω-)ンー
いまさら相良本編を修正できないので、年表でフォローしますil||li _| ̄|○ il||l
何せ星野氏の妙見城攻略には3年かかっちゃってたんで、肥後と連動してるとは気づかんかった(。-`ω-)ンー
星野氏は、大友が潰さず残した星野氏と大内が支援して残した糸の星野氏と分裂しちゃうので、そっちに気をとられた。←言い訳
うーん、歴史は全て繋がってる。勉強になりました。