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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【プロローグ・偏諱と龍造寺、後篇】龍造寺隆信「道」の巻

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「自立した勢力になる」これは亡き剛忠(家兼)の密かな悲願で遺志・・
と、前回書きましたが、もちろん遺言とか日頃の言動に残ってる訳でなく、あくまでも素人シオ推測^^

これは龍造寺の系図を見てて思いついた事なんです。
http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130202201205c17.png
こちらシオ作の簡単系図。
サイト武家家伝には詳細な大系図があります^-^

村中龍造寺宗家の系図(黒と緑ライン)人物の諱に見られる「胤」の字は、おそらく西千葉家からの偏諱です。
が、片や剛忠(家兼)の水ケ江龍造寺(青ライン)・・・偏諱を受けてる人物はゼロ。

正確に言うと、

剛忠(家兼)が実権を握っている間の水ケ江龍造寺では

千葉、少弐、大内、大友などの

大物から偏諱を受けてる人物がいないという事です


宗家が偏諱を受けてるからじゃない?
いえいえ、そういう問題じゃないでしょう。ここは大事なところですよ。

何故なら剛忠(家兼)は、分家でありながら村中宗家を凌ぎ、直で少弐資元から領地(川副千町)を与えられてるんです。
実質的に被官(室町期の家臣で緩やかな主従関係)になりながら、自分はともかく子弟に偏諱を受けさせないというのは外交関係儀礼上どうなの?って事。

繰り返しますが「偏諱」はテリトリー主張の匂い付け、マーキングと一緒です。
一度、偏諱を受ければ誰の配下か一目瞭然。
諱を日常で使うことは無いけれど、正式・公式文書・行事などでは本姓官名諱を名乗るので、偏諱を受けているが露わになります。

剛忠(家兼)は領地という実は拝領するけれど、偏諱というマーキングは拝領しなかった。
誰かのマーキングや○○サイド・・・的な色分けされるのが嫌だったんじゃないでしょうか。

実は自分・・・連載当初、龍造寺が少弐の被官だったかどうか?と言う基本的な事で判断に迷い躓きました。
龍造寺は元々が肥前千葉の被官だから、系図にあるように偏諱を受けるのは「胤」ばかり。
どの段階で少弐被官になったのか境目が判らなくて悩んだんです^^;
まぁ、その悩みはカテゴリ「地図から見た少弐と龍造寺」で解決しました( ̄ω ̄A;アセアセ

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20121201204642038.jpg 剛忠(家兼)イメージ画像

剛忠(家兼)は全ての実権を握りつつ、表向きは宗家を立てて西千葉からの偏諱のみ(宗家が)拝領してます。
少弐の御家再興が成功するかどうか微妙な段階で、少弐から偏諱を受けるほど深入りしたくない。
龍造寺は元々が肥前千葉氏の被官なので、西千葉からの偏諱が対外的に一番無難な選択だからでしょう。

何処からも偏諱を受けない・・・というチョイスは原則的には不可能です

千葉の西か東か、少弐か大内か(大友も時々混ざる)で揺れる肥前の地で、誰からのマーキングを受けないって事は、下手すれば双方から攻撃を受けて潰されます。

でも剛忠(家兼)は密かに「誰からも偏諱を受けない選択」をしてたんです


その証拠が系図・・・水ケ江龍造寺は剛忠(家兼)生存中に、千葉からも少弐からも大内・大友からだって偏諱を受けてません。
これには様々な配慮の上での選択だと推測されます。

綺麗に言うと(実力的には宗家を凌いでたけど)分家という立場なので偏諱は遠慮した・・・です。
もし人から聞かれたり偏諱を進められたら、剛忠(家兼)は神妙な顔で、そう答えたのではないでしょうか。

でも少弐が神埼に本拠地を移したのをラッキーとばかりに、少弐領だった川副・与賀の豪族をチャッカリ手なずけてる剛忠(家兼)が、そんな殊勝な心がけだったとは到底思えません(爆

剛忠(家兼)は西か東か少弐か大内かで揺れる情勢の中で、生き残りをかけた「自立した勢力への道」を歩み始めたのでしょう。
長男⇒次男(長男の養子)⇒長男嫡子(次男の養子)⇒予測:次男家男子の誰か?
という摩訶不思議な変則相続も、剛忠(家兼)の「自立した勢力への道」構想の一環だったかもしれません。
でなければ剛忠(家兼)生存中の段階で、相続に対して不満噴出になるはずだからです。

剛忠(家兼)は偏諱を受けないだけでなく、自分が偏諱を与えていました

剛忠(家兼)から偏諱を受けたのが石井家の五男・石井兼清。
http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130713231642ba2.jpg

於保(おぼ)氏と八戸(やえ)氏の系図でして、於保宗益には娘がいました。
剛忠(家兼)からみて曾孫娘でして、その婿が石井兼清。
剛忠(家兼)から偏諱を受けた時から、石井兼清は単なる縁戚から水ケ江龍造寺の家臣となったんです。

「誰かに偏諱する」という行為は、大物配下の国人領主の行う事ではなく「自立した勢力」のする事です。
石井兼清の偏諱拝領を部外者(少弐とか千葉)が知っていたかは判りません。(諱は普段使いしないので)
でも水ケ江龍造寺家中は知ってた筈です。

自立の中に「宗家からも独立する」が入っていたのかは、剛忠(家兼)が何も残してないから不明です。
でも剛忠(家兼)が龍造寺独自の路線を歩もうとしてたのは、敏感な者は感じ取ってたかな~と思うんです。
そういう下地があったからこそ、龍造寺隆信が「戦国大名への道」を選んだ事に対する一門からのクレームが無かったのでは?

隆信に不満があった者は、初期の段階でクーデターを起こして失敗してます。
残ったのは「戦国大名化への道」を亡き剛忠(家兼)の遺志ととらえ、隆信と共に歩もうと決意した者たちです。
龍造寺の急成長と強さの秘密は、そこにあったのだ!

・・・(人´∀`).☆.。.:*・ と楽しく妄想してました~
ではでは本編再開~それは・またの話 by^-^sio

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