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剛忠(家兼)1【時代は室町、5男坊】

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龍造寺のルーツは別にして「龍造寺中興の祖」と呼ばれているのが、龍造寺康家、その息子・剛忠(家兼)です。
特に剛忠(家兼)は善政を布き、それを懐かしむ人々から【剛忠さんの時代】と呼ばれていたそうだ。

自分は旧肥前記事などで剛忠(家兼)は本音を見せないと書いたのだが、
正確に言うと本音が判らないというのが正しい。

剛忠(家兼)に関することは江戸期の二次史料(北肥戦誌や歴代鎮西志)にはあっても、一次史料が残っていない。
そのため【剛忠(家兼)が何をしたかは書いていても】【なぜ行ったか理由(本心)が判らない】んです。
ですから剛忠(家兼)の行動原理に関しては100%推測になります。

道産子の自分が佐賀県の史実上の人物をアレコレ想像するのは僭越かもしれないが、
肥前中世史を心から愛するゆえと笑って許して欲しい。

龍造寺は少弐氏の被官として鎌倉の御代から仕えていた。
やがて南北朝時代より台頭した肥前千葉氏にも被官として仕えるようになる。
(主君が二人いるのは主君同士の立場(地位)が違えば無問題)

龍造寺が、大宰府の名門少弐氏と格別の接点を持つようになるのは、室町後期の宝徳2(1450)年。
北肥戦誌によると少弐教頼が龍造寺家氏を頼り、龍造寺のご近所・与賀館に入った。
ただし歴代鎮西志だと文安4(1447)、歴代鎮西要略だと文安5(1448)

つまるところ例によって、この間、少弐は大内に敗れて旗色が悪くなったので肥前に亡命してたんです。
室町後期から戦国初期にかけて、少弐は亡命するときは佐賀郡は与賀を拠点にしていた。

剛忠(家兼)が生まれたのは、少弐教頼が与賀館に入った4年後。
享徳3(1454)年。龍造寺家氏の孫にして、龍造寺康家の5男として生を受ける。

剛忠(家兼)が生まれた頃は、肥前千葉氏が「肥前国主」と尊崇されるほどの全盛期だった。
一方の少弐教頼は筑前に戻ったかと思えば、次は松浦郡へと亡命してます「by佐賀市史」( ̄ko ̄)

で、剛忠(家兼)が元服した年とか、結婚した年とかは全然わからん(;´・ω・)
しいて言うなら家兼の家は、祖父の家氏からかな~~~~~~と想像する程度。

で、何も判らないが、文明11(1479)年に剛忠(家兼)の嫡男・家純が生まれています。
29歳で嫡男誕生・・・ちょっと遅いかな(;´・ω・)
それ以前に、剛忠(家兼)が何処に住していたかも判らんっす( ̄ω ̄A;アセアセ

父・龍造寺康家は、延徳3(1491)年に槇村に水ケ江館を造った。
で康家が隠居したのは永正2(1505)年、別館(水ケ江茶屋)を作る。
水ケ江館を相続し分家した時、剛忠(家兼)は既に40を越えていた。

剛忠(家兼)の人生は、宗家である村中龍造寺を支える役割を運命づけられていたとも言える。
それが剛忠(家兼)自身の武勇で違う方向に舵を切ることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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