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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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剛忠(家兼)2【少弐政資】

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少弐氏が肥前に亡命し龍造寺を頼ったのは、龍造寺が剛忠(家兼)の祖父・家氏の頃からで、少弐は教頼の代だった。

では龍造寺・・・ひいては肥前全体に大きな影響力を持った少弐当主は?
というと、少弐教頼の息子・政資になる。

父の14代目教頼が大内に敗れて戦死(1468年・応仁2年)したため、
息子の政資は、11代目宗貞国(47歳)に保護されて対馬に亡命していた。

その対馬の11代目・宗貞国が室町将軍・足利義政から御教書(公式文書)を貰い、少弐の御家再興に成功する。
大宰府を安堵された少弐政資は「五州太守様(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)」と仰がれた。

が、少弐の御家再興に成功した少弐政資は、ちょっと勘違いしはじめた。
北肥戦誌によると
少弐政資は筑前・宗像家代々の宝物「金の猫」の話を耳にすると、無体にも宗像に対し「献上せよ」と要求した。
宗像氏は泣く泣く先祖代々から伝わるニャンコ像を少弐に献上した。
(どんな猫だったんだろう。。。。)
すっかり天狗になった少弐政資は宗像に対し「もう一匹あるはず。出し惜しみせずに寄越せ」
理不尽な要求にブチ切れた宗像は、いかにも神社の大宮司らしい切れ方をした^^;
宗像は神前で小指を噛みきり、流れる己の血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書き付け死んだ。

家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

驕り高ぶる少弐政資は、さらにやらかした。
少弐は青山城主・留守左衛門大夫を微罪で所領没収してしまう。

だが青山は宗像と違い呪詛なんて回りくどい事はしなかった。
直球、ドストレートに青山は大内政弘に少弐の非道を訴えた。
大内にすれば邪魔な少弐を潰すチャンス~即効で室町将軍・足利義政に訴え出た。

文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り大宰府から肥前へと移る事になった。
この年の4月3日に少弐政資は河上社へ社領を安堵している(河上神社文書169)ので4月には肥前入りしてたことになります。
そして肥前に亡命した時、少弐政資は父と同じく与賀館に入ったんです。
少弐政資は与賀館と城へと改修し、与賀神社を城の鬼門の鎮護にと利用した。
藤龍家譜では「龍造寺家氏を頼り、家氏が与賀館を城に改修した」とあるそうだが、年代からいって少弐教頼の亡命の時と混同していると思う。
何しろ与賀城と龍造寺の村中(佐賀)城と水ケ江城は超近所(歩いて行ける距離)なので、城の改修には当然合力してるだろうし、被官として出仕してただろう。

同年秋、大内への意趣返し?少弐は大内サイドの渋川萬寿丸の綾部城(肥前神埼郡)を攻撃して落とす。
怒った大内は再び公儀(室町幕府)へ申し立て。
大内からの申し立てにより、自分の勘気を無視されメンツを潰されたと知った将軍・義政が切れた。
足利義政【御教書】近隣の御家人よ(少弐に攻撃された)渋川に合力せよ(`・ω・´)キリッ

ヤバイと思っても後の祭り、将軍の公式発表という大義名分のお蔭で少弐の四海は敵だらけ。
少弐政資は、自業自得で肥前からも逃亡する羽目になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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