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![家紋・少弐]()
![家紋・肥前千葉]()
明応6(1497)1月、筑前で大内に少弐が敗れた頃のこと。
同年1月23日、千葉胤盛(東千葉の祖)が河上山(社)へ安堵状を出した(河上神社文書208)
同年3月27日、千葉興常(東千葉初代)が河上神社へ禁制を出す(河上神社文書172)
東千葉氏は本来は嫡流なのだが、少弐の千葉氏乗っ取り(西千葉を立てた)を憤り、大内氏の支援を受けていました。
肥前一宮の川(河)上社。
由緒ある神社への安堵も寄進も禁制を出すのも、権力者の専売特許でありステータスです。
東肥前・西肥前を制圧し、松浦党を従えた少弐政資が本貫地・大宰府を大内に奪われた結果。
肥前における少弐の権威も大きく失墜しようとしていた。

ロン様作成:少弐家紋ロゴ
少弐政資と息子たちは、政資の実弟・千葉胤資のいる晴気城へと落ち延びた(筑前から肥前へって事)
だが3月下旬には、大内軍が肥前への侵攻開始。
「晴気城では支えきることが無理!」と判断した千葉胤資によって、少弐親子は夜陰に紛れ二手に分かれて脱出したのだった。
同年4月19日
千葉胤資・・・城から討って出て戦死、西千葉氏の晴気城が落城
少弐頼高(政資の子)・・・東千葉の興常勢に討たれる
当主・少弐政資・・・逃亡先の多久宗時(側室パパン)が変心。自害を勧められて切腹、享年57歳
同4月21日
少弐高経(嫡男)・・市ノ川で敵に追いつかれ山中で自害、享年36歳
勝敗は大内義興の圧倒的勝利に終わった。
千葉興常⇒肥前守護代に任ぜられる
寝返り組・東尚盛⇒佐賀郡の一部を与えられる
寝返り組・筑紫満門⇒三根群と神崎郡を与えられる
陶弾正忠⇒博多に駐留させる
大内義興は戦後処理を終えると意気揚々と山口へ帰国。
さらに少弐氏累代の官職である「太宰少弐」の地位までゲッツする。
ここまで来ると大内の全盛期は義興の代なんじゃね?と思いたくなってくる。
が、そう話は上手く運ばなかった。
なぜなら、ここまでやられたにも関わらず、少弐が完全滅亡までには至らなかったからです。
当主・嫡男・他男子・一族多数と死亡した少弐氏でしたが、自害した政資には、もう一人・男子がいた。
生き残った男子は、少弐資元。(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ
でも未だ数え9歳 il||li _| ̄|○ il||l
少弐一門の横岳氏が匿い保護しました。( ̄ω ̄A;アセアセ
日本国内における戦の不思議さは、滅多なことで相手を完全滅亡させないことです。
平家が源氏の頼朝を生かしたことでリベンジされたことは武家における常識です。
にも拘わらず、敵に男子が残っていても殆どが殺さず、大人しく家臣になるなら家名を存続させたり、出家させたり。
逆に男子がいなければ女系の男子で系譜を繋いだりします。
後に少弐を滅ぼす龍造寺隆信も少弐生き残りの男子を殺してはいません。
この不思議さは別にして、大内義興も横岳が保護した少弐資元を殺しませんでした。
完全に留めを指すことにより、肥前国衆がドン引きするのを恐れたのかもしれません。
だって少弐政資が作った西千葉氏も残っているからです。

ロン様作成:肥前千葉家紋ロゴ
西千葉には11代目当主・胤朝の一人娘・尼日光が嫁いでいました。
彼女には息子がいないまま夫が亡くなったので、少弐資元を匿ってる横岳家から養子を二人迎えています。
ちなみに横岳家は少弐一門です。
だから実質「少弐=西千葉」と思って差し支えありません。
尼日光が何故、東千葉に敵対したのかは不明です。
心ならずも少弐政資実弟との結婚を無理強いされたのなら、この時点で降伏することが出来たはず。
だから西千葉を存続させる道を選んだのは、彼女自身の意志でしょう。
晴気城が落城する直前に、千葉胤資は妻・尼日光と養子である胤繁・胤治も逃がしたらしい。
でないと三人が生きてるはずないんで^^;
胤繁・胤治の二人は多分元服はしてたと思うが、未だ10代だったはず。
ですから西千葉を実質的に総領として仕切っていたのは、肥前千葉家の血を引く尼日光でしょう。
大内にすれば肥前の問題は肥前として、守護代にした東千葉に委ねることにより自分の手を汚すのを避けたんじゃないでしょうか。
争いは「大内と少弐の争い」から「東千葉と西千葉の争い」になり、必然的に龍造寺を巻き込むことになるのだが、それは・またの話 by^-^sio