自分が大正時代に書かれた「菱刈史」を史料とするのは、地元の郷土史家が著者だからだ。
まだ地形が変化してない現地の様子、子孫を探しての取材、そこには相良側にないデータがある。
無論間違いもあるが、それは相良側のデータを用いることで十分補正可能だ。
さて「菱刈史」によると、島津義虎が退去した羽月城に、市山城にいた新納忠元(&肝属弾正)を入れた。
そして城主がいなくなった市山城には、島津四兄弟・末弟にして天才の呼び声が高い島津家久が入ったそうだ。
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和睦も整い島津が安心したところで相良が島津を裏切った。
そもそも日向で戦線膠着状態、大隅では手打ちしましょー、っていう二重状態が変だったのだ。
裏切ることで相良は島津を敵とする外交方針一本に絞ったとも言える。
やられる島津は堪ったもんじゃないけど^^;
永禄12年5月~大友軍は毛利軍とガチンコ~半年以上のロングラン対峙戦(内、一番激しいのが多々良浜の戦い)に突入。
(肥後守護職なんだが、それどころではない大友宗麟)
同年5月6日、大口城在番の相良軍が島津家久軍に敗れる
相良家臣には変わり種というか兵法者(剣術)がいまして、知名度がイマイチ不安な丸目蔵人さん。
タイ捨流剣術の創始者でして、後年の弟子には立花宗茂いるし、やっぱ後年ですが島津も示現流に替える前はタイ捨流剣術が御家流だったんです。
色々面白逸話がある人でして「相良忍軍を作って活躍した」という荒唐無稽な話も家伝にあるらしい。
その丸目さんが若い頃、京都で修業して兵法者として名を上げて相良へ帰還~意気揚々と大口城に後詰めとして入った。
だが対するは島津四兄弟の末弟・島津家久。
家久勢1000は菱刈から落とした10の城の交替要員 & 荷駄隊を装い、丸目らは偽装に気づかぬまま荷駄を奪わんとした。
だが赤池長任家臣の小田八郎右衛門が丸目を制した。
小田「あれは囮ではないか?城を出るのは控えた方が良いのでは?!」
だが自信満々の丸目は聞く耳をもたない。
「御主は生き延びて奉行にでもなるが良い。我らは死など恐れぬ!」
丸目さんはアレだな。
名選手、名監督にならず・・・タイプなんですな( ゚Д゚)y─┛~~
出撃は重臣の深水頼金も制止したのだが、丸目はそれさえも振り切った。
こうして丸目蔵人の指揮の下、城外へと誘き出された相良勢は島津家久の伏兵に取り囲まれ全滅の危機に瀕する。
そんな丸目の危機を救ったのは、最初に引き留めた小田八郎右衛門。
敵軍に突撃し丸目達が逃げる時間を稼ぐが、そこで討ち死にしてしまった。
家久に敗退したとの報告が人吉に届いた際、小田八郎右衛門の生死をその父・小田加賀守が義陽に問いました。
急報の戦死者の中に八郎右衛門の名はなかったのですが、
小田加賀守は「これ程の大崩れならば恐らく生きておりますまい。・・・されど、我が子とはいえ八郎は武辺の者なれば、敵陣近くまで攻め入り討ち死にを遂げておりましょう」と述べます。
後日、八郎右衛門が実際にそのように討死していると判り、義陽はここまで理解し合える親子愛を羨ましく思い涙を流したそうだ・・・ダディ晴広を想ったのかもです。。(ω・`))シンミリ
命からがら人吉に逃げ帰った丸目蔵人だが、相良義陽は大敗の責任として蟄居3年を命じるのだった。
よく蟄居で済んだな( ̄ω ̄A;アセアセ
「菱刈史」によると家久と戦ったのは菱刈隆秋になっている。相良側のデータが入手できなかったのだろう。
家久側の兵力の記載がないが、荷駄の移動を囮にしたのは同じ。
ただし・・・・作戦実行は家久単独ではなく羽月城の新納忠元と協力したもの。
合図の法螺と共に菱刈(ホントは相良の丸目さん)は、新納と家久に前後から挟撃されフルボッコ!
そりゃ全滅するわ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
菱刈史著者には史料として複数の底本があったらしく、戦死者は136人とも300余人ともある。
実数としては「菱刈史」の方が近いのではないだろうか。
あと地名が文字が潰れて判読不能il||li _| ̄|○ il||l
とにかく判読不能現地には戦没者の首塚があり、著者の生きた大正時代までは盆になると僧侶が鎮魂の読経をしていた。
首塚に近い土地に、耳切り又は鼻切りと呼ばれた村があったと言う。
島津に大敗し旗色が悪くなってきた相良と菱刈。
徐々に盛り返した島津は遂に大口城を落とすのだが,それは・またの話 by^-^sio