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【ISAHAYA in 西郷・弐】西肥前強化期間・リサーチ6武家目

伊佐早氏が滅亡した詳細は不明だが、一族が全滅したわけでなく落城後に落ち延びたらしい。
山形県に伊佐早姓があり、子孫の可能性が高いそうだ。

一方、江戸期の諫早・本明川洪水関連記録にも伊佐早姓が見受けられるので、生き残った一族全て東北に行った訳でなく、勝者である西郷氏に仕えた者もいたのではないだろうか。

本明川流域を長年領していた伊佐早一族は、治水土木に長けていたそうだ。
蓄積された智慧は、新たな諫早の支配者・西郷氏に吸収されたに違いない。

肥前宇木城(宇喜町)から勢力拡大し北上した西郷尚善は、伊佐早氏を亡ぼすと伊佐早氏の本城だった船越城(位置不明・船越町のどこか)に入ってました。

1474年、西郷尚善は高城城(現:諫早公園)を築いて入る

(船越城は一族の者が城主として守った)

実は同じ河川流域でも諫早の本明川は、須古の六角川や蓮池の佐賀江川とは大きく違う

川筋の蛇行が殆どないんです

本明川は多良山系の南にある五家原岳(標高1,058m)を水源としており、山間部は支流が毛細血管のように張り巡らされ本明川へと合流する。

地形図の毛細血管支流を初めて見た時には、こ・・この河川、素人地理音痴が理解できるだろうか・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とガチで怖気づき気が遠くなった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それでも「虚仮の一念」で何度も検索と地形図をガン見を繰り返すうちに、なんとな~く纏まってきました。

本明川は川筋としては長くなく、川全体としては山間部が7割、平野部が3割くらいの比率です。
メインが山間部で水源は標高1,058mですから、山間部~平野部にかけては物凄い急こう配。

ちなみに平野部と書いてはいますが、江戸期干拓前ですから戦国期の平野部は範囲が決して広いわけじゃありません。
戦国諫早の海岸線は、佐賀県側ほどはキッチリ特定できなかった^^;
(天狗鼻って、いつから出来てたんだろうヽ(。_゜)ノ ?)

ちなみに航空写真でも見える干拓地・諫早平野は、江戸期からなのはハッキリしてます。
さらに半造川が現在のように本明川と合流しておらず、戦国時代の河口は別々。
それらを踏まえて戦国諫早海岸線を類推すると、高城城から戦国期・本明川河口までは2kmくらいしかありません。

でもって有明海満干潮は諫早にも河川逆流現象をもたらします。
いくらなんでも急こう配山間部を遡ることはありません。
浸水するのは2km四方の平野部です。

この地形では、本明川流域平野部の排水能力が・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
長雨があると本明川は、排水能力MAXを簡単に超えちゃうので、大洪水をたびたび引き起こしてます。
現在、水位観測所がある埋津(諫早市船越町)は、本明川から約500m離れてます。
埋津・・・津=港なんですけど、いつから成立したのか何としても判らんかった(-ω-#)クヤシイ
長崎県(=西肥前)はベースとなる史料が少ないので、佐賀県(=東肥前)ほどはWEBデータもないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

一般的に肥前における津や城は、逆流現象時の浸水を見越して一定の距離を置いて作られます。
従って満干潮逆流現象は、本明川から500mくらいの位置まで浸水するのが平常運転だったと言う事です。

とはいえ、埋津のある場所が船越町って地名で、かつ戦国前から船越城があった以上、河川(戦国時代なら河口)港として既に機能してたと思います^-^

ちなみに船越町の位置は、半造川と本明川の丁度真ん中あたり。
素晴らしい!(福山ガリレオ風で)実に(・∀・)イイ!位置です。
おそらく諫早における「戦国期~江戸期の河川ライフライン起点」は、船越町だったはず。
案外、埋津橋付近が船越城の場所だったかもだな~~

さて、例え平城でも防備力があるのが肥前の城郭(=^・ω・^=)v ブイ
クリークで囲んでただろうし、本明川(北)と半造川(南)の真ん中に位置しているから、船越城の南北は歩くのも一苦労する湿地帯だったはずです。

逆に鉄砲のない時代の西郷尚善が、よく船越城を落とせたと思います。
伊佐早一族or家臣に内通者がいたか、有馬から援助を受けたかもですね。

船越城が「海の起点」とするならば、西郷尚善が新たに築いた高城城は「陸の起点」だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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