コメ返事・訪問も追いつき、気持ちも吹っ切れたところでリサーチ記事再開です^^/
ブログ村再開の方は、年明けに父の検査結果を聞いてから、再度検討しますm(__)m
はだり(=周囲)が騒いだって、どもならん~~ですな( ゚Д゚)y─┛~~
ブログ村再開の方は、年明けに父の検査結果を聞いてから、再度検討しますm(__)m
はだり(=周囲)が騒いだって、どもならん~~ですな( ゚Д゚)y─┛~~
==============================================
史料が欠落しているため、西郷家当主は生没年不明が殆どです。
有馬氏から西郷氏へと養子に入った純久には、3人の男子と一人の女子がいました。
有馬氏から西郷氏へと養子に入った純久には、3人の男子と一人の女子がいました。
ゴソゴソ・・・よっこらせ!
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

これでも主要人物以外(次男以下)は省略してるんです~
妹子ちゃんに「お姉ちゃんのクセ字、みんな読めてるの?」と突っ込まれた・・・はぅ!Σ(´Д`;)
西郷氏を継いだのが、嫡男の純堯(すみたか)、正室は有馬義貞の妹(or姉or娘)
次男、純門(すみかど)が宇木城主(有喜町)
三男、純賢(すみかた)が後に深堀家へ養子に入ります。
女子が大村純忠に嫁ぎます。
次男、純門(すみかど)が宇木城主(有喜町)
三男、純賢(すみかた)が後に深堀家へ養子に入ります。
女子が大村純忠に嫁ぎます。
大村純忠は有馬家からの養子ですので、血縁上だと従兄妹同士の結婚になります。
妻の父・西郷純久も有馬からの養子ですから、いわば有馬にとっては身内同士の結束を強める意味もあったでしょう。
こういった血縁・縁戚関係により西郷氏は、有馬氏から準一門待遇を受ける老臣の地位にありました。
妻の父・西郷純久も有馬からの養子ですから、いわば有馬にとっては身内同士の結束を強める意味もあったでしょう。
こういった血縁・縁戚関係により西郷氏は、有馬氏から準一門待遇を受ける老臣の地位にありました。
1562年(永禄5)ついに有馬と龍造寺が本格的ガチンコ
現在、肥前戦国史本編が中断しているのは、まさにココです^^b西肥前の武将名が大量に北肥戦誌に登場した為、自分の脳内で処理しきれずΣ(´Д`;)
大慌てで西肥前知識を仕入れている真っ最中なのが「西肥前強化期間シリーズ」です( ̄ω ̄A;アセアセ
で、結果からいうと有馬勢が敗れました。
有馬にとって困ったのは、龍造寺からの脅威がある中で、準一門同士である大村純忠と西郷純堯が対立したことです。
対立のきっかけは大村純忠のキリシタンへの入信(1562年)です。
西郷純堯はキリシタンが大嫌いでした。
それに加えて大村純忠が南蛮交易を始めた事も、更に対立を深めたんです。
対立のきっかけは大村純忠のキリシタンへの入信(1562年)です。
西郷純堯はキリシタンが大嫌いでした。
それに加えて大村純忠が南蛮交易を始めた事も、更に対立を深めたんです。
1563年6月、大村との対立から西郷純堯は、有馬軍と埋津で戦う
梅津と記載されてるものもありますが、埋津のことです。埋津は諫早市船越町にある河口(※干拓前・戦国当時)港ですので、西郷純堯は有馬勢に本拠地を脅かされたんです。
こうなったら縁戚もヘッタクレもありません。
西郷純堯は多数の犠牲を出しつつも、有馬勢を撃退します。o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
有馬と西郷は抗争状態になるんですが、有馬にとってマタマタ困るのは西郷を完全に敵に回せないという点でした。
全盛期の西郷エリアは藤津郡・杵島郡にまで及んでいました。
龍造寺が勢力拡大し、馬渡(もうたい)氏&肥前須古城と六角川防衛ラインを突破した時に、最前線となるのが西郷エリアなんです。
全盛期の西郷エリアは藤津郡・杵島郡にまで及んでいました。
龍造寺が勢力拡大し、馬渡(もうたい)氏&肥前須古城と六角川防衛ラインを突破した時に、最前線となるのが西郷エリアなんです。
このあたりから有馬の外政がグダグダになってきます。
龍造寺の勢力拡大が止まらない現状、有馬は東との最前線である西郷との関係を優先すべきでした。
ですが有馬義貞は、一途にキリシタンとしての信仰を貫こうとする実弟・大村純忠を不憫で見放せなかったんです。
もちろん南蛮貿易から来る莫大な利益も魅力だったでしょう。
が有馬義貞も後にキリシタンになってるところを見ると、心情的にも大村純忠贔屓だったのは否めません。
龍造寺の勢力拡大が止まらない現状、有馬は東との最前線である西郷との関係を優先すべきでした。
ですが有馬義貞は、一途にキリシタンとしての信仰を貫こうとする実弟・大村純忠を不憫で見放せなかったんです。
もちろん南蛮貿易から来る莫大な利益も魅力だったでしょう。
が有馬義貞も後にキリシタンになってるところを見ると、心情的にも大村純忠贔屓だったのは否めません。
有馬義貞は大村純忠に忠告しました。 「西郷純堯の純忠に対する憎悪の主な原因は純忠のキリスト入信したことであると伝え、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなる」 これに対し大村純忠は、 「自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣、および生命を失っても棄教はしない(`・ω・´)キリッ」 (参照:サイト「武家家伝_肥前西郷氏」)
1565年8月、西郷純堯の末弟・純賢が深堀家の養子となり深堀18代領主となります
大村(舅)&長崎(婿)チームに対し、西郷・深堀兄弟チーム結成です ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!大村純忠を攻撃する西郷純堯を、フロイスは日本史で「デウス」の教えに最も残忍で苛酷な敵であると記述してます。
1572年3月に大村攻めをするんですが失敗。
1573年、上手く行かない大村攻めに苛立った西郷は、有馬義貞(西郷の妻の実家)を通じて大村純忠を謀殺しようとします。
が、これは実弟を不憫に思った有馬義貞が大村純忠に知らせて助けちゃいます(西郷:怒)
1572年3月に大村攻めをするんですが失敗。
1573年、上手く行かない大村攻めに苛立った西郷は、有馬義貞(西郷の妻の実家)を通じて大村純忠を謀殺しようとします。
が、これは実弟を不憫に思った有馬義貞が大村純忠に知らせて助けちゃいます(西郷:怒)
このあたり西郷に対しても下手になってる感で、有馬義貞がブレブレだったのが窺えます。
ちなみに有馬氏が以前に嬉野氏に与えた所領を他の者に与えてしまい、激怒した嬉野氏が寝返ったのも1573年の事です。
ちなみに有馬氏が以前に嬉野氏に与えた所領を他の者に与えてしまい、激怒した嬉野氏が寝返ったのも1573年の事です。